太宰治著『彼は昔の彼ならず』では、語り手の家を借りに来た男が妙な名刺を渡して帰って行った。
「残された名刺には、住所はなくただ木下青扇とだけ平字で印刷され、その文字の右肩には、自由天才流書道教授とペンで小汚く書き添えられていた。」
ふざけているのだろうか? この何をやっているのかわからない男が汚いペン字で書いた「自由天才流書道教授」という肩書に、隠しきれない誇りというか自我の強さを感じてしまうのである。
「自由天才流」というのは、案外、本気ではないだろうか。無職でも、ヒモでも、自分は誰の指図も受けない、自分は誰よりも才能がある。こう言いたげである。これを自分の名刺に手書きで書き足すところに、ある種のためらいも感じられる。
この諧謔は笑えるだろうか? 「武士は食わねど高楊枝」とも違う。男が最後に拠り所とするのは、誰よりも自由で誰よりも才能があることなのだ。この哀愁漂う姿は、やはり笑えるかもしれない。