太宰治著『虚構の春』は、太宰治宛てに届いた手紙をそのまま載せるという実験的な体裁の小説である。「虚構の」と言いながら、実際の手紙を載せたと思われる部分もあり、初出の雑誌では実在の名前が出ていた箇所が、本人からの抗議を受けてか単行本化されるに当たって修正されている。
「会社員生活をしているから社会がみえたり、心境が広くなるわけではなく、却って月給日と上役の顔以外にはなんにもみえません。」という箇所は初出の雑誌版でも実名は出て来ないが、状況から判断して田中英光をモデルにしていると思われる。彼は、京城(ソウル)で駐在員をしながら文学への未練を断ち切れないでいる。
就職して働いて、人並みの苦労をして初めて一人前だという考えがあるのは重々承知だが、大人の世界は、自分の立場を守るのに汲々として理想などどこかへ置き忘れたかのような人ばかりである。そして、自分もそんなつまらない大人の一人になって行く。
このような見方は、若者としてありふれているが、ありふれているが故に普遍的であり、そんな若者がいる限りこの小説は売れ続けるだろう。そして、それを著者自身が声高に叫ぶのではなく、自分に届いた手紙の一つとして紹介するという形式を選んだ辺りに小説としての上手さも感じる。